悪の女幹部趣味パ「グレート・ルナリアム」暫定版の紹介

 皆様御存知の通り、私は『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズが大好きです。従って、吉井ダン繋がりで、ルネの『悪の女幹部 フルムーンナイト』リンク先18禁注意)に興味を持つのも必然だと言えましょう。当初、私はルネといえば『戦乙女ヴァルキリー』シリーズくらいしか知らず、陵辱ゲームブランドの有名どころという雑な認識しか持ち合わせていませんでした。私自身、陵辱ゲームというジャンルは苦手でありまして、シルキーズの『姫騎士アンジェリカ〜あなたって、本当に最低の屑だわ!〜』くらいしか真面目にプレイしたものは挙げられないほどでありますので、『悪の女幹部』に手を出すのは正直躊躇いがありました。しかし、体験版をプレイしてみるとこれが本当に面白く、魅力的なキャラクターやシナリオに打ちのめされてしまいました。私は即座に製品版の購入を決意しました。これが2014年5月中旬の話です。
 それから暫くしても、『悪の女幹部』のキャラクターへの愛着をなかなか忘れることができなかったため、私は当時少しずつ始めていたポケモン育成と絡めて、自分が女幹部たちを使役するボスとして振る舞うことを考えました。6人の女幹部と同じニックネームをつけたポケモン6体で「悪の女幹部趣味パ」を構築する。それが私の目標となりました。


 そして、どのポケモンを各女幹部にあてるか、という悩ましい問題と向き合うことになりました。原案は次の通りです。
 しかし、悪統一パは意外にもポケモンの選択肢が少なく、悪統一パとしての完成度と「悪の女幹部趣味パ」の満足度を両立することは非常に難しいということが分かりました。(勝手な話ですが)私の中での各女幹部イメージに合致するポケモンが悪タイプには少ないのです。私はタイプ統一の限界という壁に突き当たりました。

 結局、仕事の忙しさや他の娯楽との兼ね合いを言い訳にして、「悪の女幹部趣味パ」の育成は棚上げとなり、2015年6月まで停滞期が続くことになりました。
 転機は、ミルタンク♀をダイヤナにあてがうというアイディアが浮かんだときでした。この時点で完全に悪統一パというコンセプトは崩壊していましたが、それはもはや気になりませんでした。


 以上のような諸々の葛藤を経て(ここに掲げた葛藤はほんの一部に過ぎませんが)、2015年9月にようやく「悪の女幹部趣味パ」のプロトタイプが完成しました。まだまだ改良の余地はありますが、個人的には納得しています。次の目標はこの趣味パでバトルハウス攻略(各モードでの50連勝達成)を進めることなのですが、私の腕(や個体値の妥協)の問題もあってなかなかうまくいきません。ぼちぼち頑張ります。
 以下、「悪の女幹部趣味パ」の面々を紹介して、このエントリを締め括りたいと思います。当然ながら全員♀です。従って、♂タイプの「メロメロ」や特性「メロメロボディ」にはめっぽう弱いです。こればかりはどうしようもないな……。原作のキャラクター造形や設定などはこちらリンク先18禁注意)を御覧ください。

「パーフェクト・メイデン」ルナテミス(サーナイト

タイプ:エスパー/フェアリー
特 性:トレース→フェアリースキン
性 格:ひかえめ
努力値:H236 C214 S60
持ち物:サーナイトナイト
技  :ハイパーボイスサイコショック10まんボルト/かげうち

  • グレート・ルナリアムのリーダー、女幹部ただ一人のフルムーン階級ということで、圧倒的な破壊力を備えたポケモンをあてがいたい!と悩んでいるうちに、育成・調整が一番最後になってしまった。破壊力優先といっても、華麗で優雅な姫キャラは崩したくなかったので、割とベタにサーナイト♀をあてがった。
  • 原案ではゲームにちなんで「ムーンフォース」採用を考えたが、最終的に破壊力優先で特性「フェアリースキン」+「ハイパーボイス」を採用。メガシンカ枠もフルムーンにこそ相応しいのではないかという判断。
  • メガシンカ後、C種族値165で一致「ハイパーボイス」を打てるのは爽快。この技は「みがわり」も貫通するので便利。相手のパーティ次第では、姫様をとことん暴れさせられるので楽しい。また、特殊受けの相手のために「サイコキネシス」ではなく「サイコショック」を採用した。
  • 10まんボルト」は汎用性があるという判断から採用。姫様一人だけが残った時に、たまに助かることがある。
  • S種族値は高くない(80→100)ので先発には不向き。D種族値は高め(115→135)だが、B種族値は65と紙耐久なので、ゴースト技や毒技の物理攻撃にはめっぽう弱い。ゴーストの特殊アタッカー(ゲンガー、シャンデラなど)の「シャドーボール」なども割と危険。
  • S種族値の低さを補うために、最後のミリ削り技として「かげうち」を入れているが、これはほとんど使う機会がない。
  • 特性「トレース」はダブル・トリプルではギャンブル感があるが、基本的に女幹部たちは協力作業が苦手=シングル向きという設定で趣味パを構築したため、ダブル・トリプル向きの「テレパシー」は不採用。「シンクロ」は後述のオボロ(ブラッキー♀)との差異化のために採用しなかった。

「月影流忍術正統」カグヤ(ゲッコウガ

タイプ:みず/あく→かくとう or どく or こおり or あく
特 性:へんげんじざい
性 格:おくびょう
努力値:A252 C6 S252
持ち物:いのちのたま
技  :けたぐり/ダストシュート/れいとうビームあくのはどう

  • ハーフムーン階級の忍者ということで、ゲッコウガ♀をあてがった。このキャスティングは構想の初期にあっさり決まったが、育成・調整には長い時間を要した(ORAS教え技の採用、夢特性ケロマツ♀の孵化作業など)。
  • 特性「へんげんじざい」とS種族値122のおかげで、先発の速攻アタッカーを任せられる。とにかく紙耐久だが、タイプ変化と速攻により相手を攪乱するさまは、まさに月影流忍術正統の名に相応しい。
  • ORASでの教え技解禁により、両刀型を実現できるようになった。「けたぐり」で無対策のバンギラスボスゴドラ程度なら簡単に落とせる。「ダストシュート」は命中不安だが、フェアリータイプを正面から相手にできるので必須。
  • 対応範囲の広さと引き換えに、火力は微妙に足りない。「いのちのたま」を持たせることでカヴァーしているが、それでも確1で落とせないことがしばしば。例えばニョロボン、カイリキー、フローゼルデンリュウドラピオンなどが相手だと、こちらも一発では落とされないが、じわじわHPを削られるので嫌な展開になりがち。
  • オンバーン(S種族値123)、ファイアロー(S種族値126)、サンダース(S種族値130)、プテラ(S種族値130→150)、マルマイン(S種族値140)、アギルダー(S種族値145)など、S種族値で負けている相手は天敵。また、耐久型の相手(ナットレイなど)にも有効打を持たないことが多く、先発で苦手な相手と当たってしまうと引かざるをえない場合が多いが、そうすると地味に立ち回りが難しくなる(紙耐久のため後発ではほぼ機能しない)。

「狂魔元帥」エファナチカ(サザンドラ

タイプ:あく/ドラゴン
特 性:ふゆう
性 格:ひかえめ
努力値:C252 D6 S252
持ち物:じゃくてんほけん
技  :りゅうせいぐんだいもんじあくのはどういわなだれ

  • ハーフムーン階級+凶暴な性格+青肌ということで、サザンドラ♀以外の選択肢は思い浮かばなかった。一番最初に育成・調整を終えたメンバーである。第6世代でニックネームが最大6文字になったおかげでエファ様をなんとか表現することに成功(「エファナティカ」は流石に無理だったが)。モノズは孵化までの歩数が多いので疲れる。
  • S種族値98が本当に微妙な数値で困る。速攻アタッカーにとってはカモそのものの数値だし、すぐ上にはサンダー、ケッキング、ボーマンダ(以上S種族値100)、化身ランドロス、霊獣ボルトロス(以上S種族値101)、そしてガブリアス(S種族値102)などがいるため、選出段階から厳しい選択を迫られる。格闘技、氷技、フェアリー技は頻繁に飛んでくるので、一発で落とされることもしばしば。テクニガッサは天敵。
  • あくのはどう」は第6世代で鋼タイプに悪技が等倍で通るようになったので汎用性が高まった。「だいもんじ」はナットレイハッサムフォレトス、氷タイプなどを想定して威力重視で採用。若干命中不安だが、気合で当てる。
  • いわなだれ」はファイアローピンポイント対策のつもりだったが、「いわなだれ」で落ちないファイアローも多いうえ、「ブレイブバード」先制でエファ様が落ちることもあるので実用性は低いかもしれない。「だいもんじ」気合で当てる理論に倣えば、「ストーンエッジ」でもいいのだが、「ストーンエッジ」はとにかく命中不安なので採用しなかった。ウルガモス対策ということで「ストーンエッジ」採用もありうるか?
  • りゅうせいぐん」は当然ながら撃ち逃げ用。「しろいハーブ」を持たせることで「りゅうせいぐん」を2回使用できるようにしていた時期もあったが、特性「いかく」や「いばる」が頻繁に飛んできて無駄になることが分かったので「じゃくてんほけん」に切り替えた。カグヤ(ゲッコウガ♀)の代わりに「いのちのたま」を持たせる選択肢もあるか。
  • 「こだわりメガネ」や「こだわりスカーフ」を持たせて運用することも考えたが、フェアリータイプの登場に伴って「りゅうせいぐん」を思考停止で撃ちにくくなったため、アイディア段階にとどめた。

「獣狼拳」セレーナ(ルカリオ

タイプ:かくとう/はがね
特 性:せいしんりょく
性 格:いじっぱり
努力値:H6 A252 S252
持ち物:きあいのタスキ
技  :インファイトしんそく/じしん/つるぎのまい

  • 「悪の女幹部趣味パ」なのに格闘タイプというブレブレっぷりだが、月狼族の族長というセレーナの外見的にはハマっているのではないかしら。クレセントムーン階級らしく、そこそこの実力に仕上がった気がする。理想個体のリオル♀がとにかく産まれず、難儀した割には使い勝手が悪く、愛情だけで育てた感がある。
  • メガシンカ枠を姫様(サーナイト♀)に使ってしまったため、メガルカリオとしての運用ができない。そこで第6世代の環境としては珍しく、「きあいのタスキ」型で育成することにした。今度ヘカテリーナリンク先18禁注意)を育成する機会があれば、メガルカリオ型にしようかと考えている。
  • メガシンカしないため、S種族値90+紙耐久のまま。微妙なS種族値と紙耐久を補うために「きあいのタスキ」を持たせているが、「まきびし」や「ステルスロック」といったHP削り工作や天候技の「あられ」などで「きあいのタスキ」は容易に潰されてしまうため、正直なところシングルでの運用はかなり厳しい(砂嵐状態には強いけれども)。その反面、ダブル・トリプルでの後半戦では、物理アタッカーとしてかなり活躍できているという印象。
  • つるぎのまい」が積めれば(まずシングルでそんな余裕はないが)、最強の先制技「しんそく」によって数多くの相手を葬り去ることができるようになる……はずなのだが、現実はそう甘くはない。
  • 格闘バカキャラを演出するために「インファイト」ではなく「とびひざげり」を採用する予定だったが、遺伝作業が面倒になってやめた。
  • 当然ながら「おにび」で機能停止する。

「幽世に嗤う」オボロ(ブラッキー

タイプ:あく
特 性:シンクロ
性 格:ずぶとい
努力値:H252 B252 S6
持ち物:ゴツゴツメット
技  :イカサマ/どくどく/つきのひかり/いやしのすず

  • 月兎族出身のクレセントムーン階級ということで、ブラッキー♀をあてがった。直接的な戦闘力は低いが、霊符や式神を操ることには長けているという、頭脳戦を得意とするオボロを意識した技構成にしたが、育成してみたら適当に使っていても強い特殊受けメンバーになってしまった。
  • つきのひかり」は月兎族のイメージにピッタリ合致する強力な回復技。回復量が天候に左右されるのが難点だが、それにしたって強力。「いやしのすず」はパーティ全体の状態異常を回復できるため、とにかく重宝する。決定力不足の相手を「どくどく」で削って倒すのが、オボロらしくて楽しい(ただし、ツボツボやユレイドル相手だと泥仕合になる)。
  • 特性「シンクロ」のおかげで、毒・麻痺・火傷状態を相手にも移せるのが強み。「どくどく」を受けると機能停止するが、「いやしのすず」があるため、(毒タイプや鋼タイプの相手を除いては)立ち回り次第でこちらだけが状態異常から抜け出ることもできる。
  • 攻撃力の低さは「イカサマ」でカヴァー。第6世代で鋼タイプに悪技が等倍で通るようになったので、汎用性も高まった(エファ様の「あくのはどう」同様)。
  • ゴツゴツメット」を持たせることで、物理アタッカーを「イカサマ」で狩りやすくなる。カビゴンやガルーラを簡単に落とせることもある。相手が「つるぎのまい」などを積んでいる場合も、うまくタイミングが合えば「イカサマ」の餌食にできる。
  • フェアリータイプ(特にクレッフィ)には有効打がない。ニンフィアの「ムーンフォース」なども割と危険なので、耐久力の過信は禁物。
  • オボロを出すと対戦時間がとにかく長くなるため、サクッと勝負したい時には使うこちらも苛々してくることがあるが、そこもオボロの魅力ということで。

「ハイグレード・ダイヤモンド」ダイヤナ(ミルタンク

タイプ:ノーマル
特 性:きもったま
性 格:いじっぱり
努力値:A252 D6 S252
持ち物:シルクのスカーフ
技  :のしかかり/じしん/ほのおのパンチ/ミルクのみ

  • 当初は炎技に引きずられてヘルガー♀をあてがっていたが、キャラクターイメージも合わないし実用性もないということで、ミルタンク♀をあてがうという「乳キャス」に切り替えた。ダイヤナちゃんといったら、やっぱりおっぱいなんですよ。
  • S種族値100という意外にも高い数値のおかげで活躍の場は多い。相手に先手を取られるようでも、「のしかかり」で麻痺させることができれば勝ち筋が見えてくることも。特性「きもったま」のおかげでゴーストタイプにも「のしかかり」が当たるので、無対策の相手にはかなり有効。
  • ORASでの教え技解禁により「ほのおのパンチ」を楽に習得できるようになった。この採用は炎技を使うダイヤナちゃんに合わせたものでしかなかったが、無対策のハッサムを稀に落とせたりするので、使い道がないわけではなかったようだ。
  • 「ミルクのみ」で素早く自己回復できるので、決定力不足の相手には強く出られる。対戦相手が画面の向こう側で「こんな雌牛にやられるなんて……」と歯軋りしている様子を想像すると楽しくなる。
  • 流石に格闘タイプを正面から相手するには不安が大きいが、幅広い相手を狩っていけるので、クレセントムーン階級にしておくには惜しい出来となった。

 さて、今後も「悪の女幹部趣味パ」については改良・微調整、ならびに戦術・立ち回りの研究を続けていくのは勿論のことですが、『悪の女幹部2〜キサマなどに教育されてたまるかっ!〜』リンク先18禁注意)のキャラクターをモチーフとした「悪の女幹部趣味パ」第2弾・ブラックメルヘンについても、育成・調整を進めていきたいと考えています。しゅらひめ(バンギラス♀@バンギラスナイト)ハルカプトラ(デスカーン♀@たべのこし)については育成・調整済ですが、グリムロックサイレーン、バッケンハンター、バッケンローダーについてはどのポケモンをあてがうかというところから決めかねており、まだまだ先は長そうです(あてがうポケモンの案などがありましたら教えていただけると助かります)。なお、しゅらひめ(バンギラス♀)については色違いだったらイメージ的にも最高なのですが、色違いまで粘ると気が遠くなりそうなので妥協しています。

C89『声ヲタグランプリ』Vol. 16が出ます(29日・東“ペ”05b)


 皆様こんにちは。2015年ももうすぐおしまいですね。やはり、年末と言ったら冬のコミックマーケットでしょう(まぁ、私自身は帰省の関係で一度も冬コミに行ったことがないのですけれども)。谷部 (id:tani-bu) は今回もコミックマーケットにサークル参加します。なんと表紙はVol. 14に引き続き、フルカラー印刷です! すごい! 表紙は同人誌の内容を担保するものではありませんが、これは買いです。内容は以下の通りです。

特集 声ヲタクリスマスアワードを振り返る
企画開始10周年! そのとき私はまだ中学生だったんだが!?
声優アワード」に先駆けて声ヲタ有志の間で始まった「声ヲタクリスマスアワード」11年分のデータを全て公開します。温故知新の座談会、必見です!


新人声優リヴュー
「おいおい!」なあの新人も登場するかも?


2015年下半期声優アニメリヴュー
ガチ論考、イベントレポ同然の原稿、のろけ原稿、下ネタ……。編集部の方で比率を調整しているわけではないのですが、集まってみるとちょうどいい塩梅になる。それがこえぐら!


声ヲタお悩み相談所
「なんか、地獄絵図だな……」「今回は怖い案件が多かったね」(本誌より抜粋)

 私は今回、特集座談会とお悩み相談所のパネリストとして参加しているほか、『オーバーロード』『GATE』『モンスター娘のいる日常』の3本を寄稿しています。通底するテーマは「後ろめたさの感覚/意識」です。なお、『モンスター娘のいる日常』リヴューは、今年8月に公開した「『モンスター娘のいる日常』を声優アニメとして観る前に」の実質的な続編となっております。こちらも併せて、お楽しみいただければ幸いでございます。
 ブースは12月29日・東“ペ”05bです。しっかりと防寒と風邪対策をしてお越しください。よろしくお願いします!

創作と偽史のあいだ――ある事例に見る歴史修正主義の陥穽(コメント欄に追記あり)

 皆様こんにちは。ご無沙汰しております、Rasielです。今回のエントリは声優やアイドルにまつわる話題ではなく、歴史についての(少し堅めの?)話題です。
 さて。Googleとは恐ろしいもので、先日「カール大帝 ヒルデガルト」で検索をかけていたら、たまたま次のページを見つけてしまいました。
 http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/29/234249
 http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/30/235531
 このブログや筆者が何なのかは存じ上げませんが、少なくともこのエントリには言葉を悪くすればデタラメが数多く含まれています。私はカールの時代の国制や教会、ひいては神学に関心があり、ほんの少しですが勉強しているので、このエントリに書かれていることに対する反証を書かせていただきます。趣旨は「カール大帝」その他で検索をかけた時に、こうしたデタラメが引っ掛かるというのは問題だと感じるので、一介の私ではありますが訂正を試みたいということです。その際、多くの人のアクセスの便宜を考えて、なるべく日本語文献を典拠として挙げたいと思います。
 以下、適宜元エントリを引用しつつ議論を進めていきます。まず、カールについては次のような記述から始まっています。

ところでカール1世(=大帝)(742年生)は、5回結婚し、且つ多くの愛妾を持ちました。王の役目は子孫繁栄。子どもや妻、愛妾の多さは一族の争いも招く事も多々ありますが、王の血を継ぐ者が少なければ国家衰亡を招きます。
http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/29/234249

王の役目に関する(勝手な)想像はご自由にという感じですが、ここで気になるのはカールの生年を742年としていることです。この点に関しては調査不足もやむをえないのかもしれませんが、実は近年になって、カールの生年は747年ないし748年だったのではないかという見解が主流になっています。カールの父ピピンと母ベルトラーダの婚姻は744年ないし749年に成立したと考えられており、カールの出生を742年とすると彼は私生児ということになり、問題が生じます。というのは、ローマ教皇は754年7月にカールとその弟カールマンにフランク王国の継承者としての承認を意味する塗油を施しているからでありまして、ローマ教皇が私生児を次世代の王として聖別するとは考えられないからです。そこでカールの両親は744年に婚姻を結び、747年ないし748年にカールが生まれたと考える見解が有力となったわけです。これについては次に掲げる文献を御覧ください。

 その後、カールの息子ピピンについての記述が続きます。

最初の妻は、ブルグント貴族(何家か不明)の娘ヒミルトルーデ。西ローマ皇帝として即位する前年767年頃の結婚で、長女アモードル(768年)と長男ピピン(770年生)を授かりますが、ピピン誕生後に離婚。その後のヒミルトルーデは、アモードルを連れ修道院へ。残されたピピンはその事実を知った時から父カールに対して反抗的になる。ピピンはイタリア王となりますが、父に謀叛。しかし、それは失敗して生涯幽閉の身に。イタリア王位は、同じ名を持つ異母弟ピピンに譲られます。
http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/29/234249

この記述は端的に誤りです。第一にカールが「西ローマ皇帝」なる称号を少なくとも800年の戴冠以前に用いたことは一度もありません。仮に百歩譲って800年の戴冠を「西ローマ帝国の復活」と看做すにしても(そもそもこうした枠組自体、「古代末期」研究によって覆されているわけですが)、カールを即位当初から「皇帝」と呼ぶ慣行は(教科書レベルですら)存在しません。第二に「同じ名を持つ異母弟ピピン」はもともとカールマンという名前でした。カールと最初の王妃ヒミルトゥルーデとの間に生まれた長男ピピンは「せむしのピピン」と呼ばれる障害児でありました。カールは781年4月の生涯二度目のローマ訪問に際して、三番目の王妃ヒルデガルトとの間に生まれた三男カールマンと四男ルートヴィヒを伴いまして、二人の王子に時の教皇ハドリアヌス1世から洗礼・塗油を受けさせています。そしてこのタイミングで、カールマンはピピンに改名されたのです。これは長男の「せむしのピピン」の事実上の廃嫡を意味すると考えられており、792年に彼が叛乱を起こすのは以上の文脈で理解しなければならない、ということになります。これについては次に掲げる文献を御覧ください。ですので、

そして、父カール大帝に謀叛するピピンが実はアデルペルガの子で、三男とされるピピンと同一人物だとすると、全て辻褄が合います。
http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/29/234249

という想定は全く成り立ちません。また、三男カールマン(=ピピン)は781年4月の段階で教皇ハドリアヌスからイタリア王として聖別を受けており、長男ピピンが叛乱を起こすのは792年ですから、論理的に考えて長男から三男へとイタリア王位が譲渡されたという解釈も成り立ちません。
 もう一つのエントリも事実誤認に満ちています。

774年。カール率いるフランク軍(=西ローマ軍)はロンパルディアへ侵攻。王都パヴィーアを占領して、ランゴバルド王国を滅亡に追い込みます。これによって、フランク族ローマ教皇を守護する盟主となり、神聖ローマ帝国を建国する根拠にもなります。
http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/30/235531

とありますが、このカールの生涯一度目のローマ訪問でいかなる内容の合意が成立したのかは、史料の制約からして何も言うことができません。「フランク族ローマ教皇を守護する盟主とな」ったというのは、後世の歴史家の推測に過ぎませんので注意が必要です。仮にこの点を正当化するにしても、いっそう周到な議論の枠組が必要です。ですからこれが「神聖ローマ帝国を建国する根拠」などにはならないことは明らかでしょう。また、

3年後の777年。恐らくフランクの王と、ローマ教皇、そして所謂ランゴバルド三侯国の公の協議が行われ、カール1世の長男ピピンランゴバルド王に即位。このピピンに関しては、前回、カール1世とアデルベルガの子どもではないのかな?と考える此方はそういう怪説を致しました。昨日の今日で路線変更など出来ませんから、その流れで話を進めれば、元弟妃アデルベルガ=ピピンの実母の願いを聞き入れて、ピピンをランゴルド王に即位させ、ランゴバルド三侯国の保護存続を認めた。という事になります。
http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/30/235531

という記述についても、そもそも777年にフランク王とローマ教皇の協議があったという事実はない、とだけコメントしておきます。
そして、こうした数々の事実誤認にもまして問題なのが、次の記述です。

千年以上も昔の真実は今更何も出て来ないでしょうけど、こういう説で書かれている本など我が国には無いみたいですから、全ては此方の勝手な想像。百年後、千年後、こういう話が事実化されていたら面白い。歴史は後からだって創る事が可能です。その事は、支那や韓国に好き勝手に歴史を騙られている我が国の人達が一番理解出来るでしょう。
http://hidexhirax.hatenablog.com/entry/2015/06/30/235531

実際、私がこのエントリを書こうと決意したのも、この記述に対する怒りからであります。筆者が意識的に書いているのかどうかは定かではありませんが、西欧中世を題材にして歴史家ぶりつつも、とうとう馬脚を露わしたものです。「支那や韓国」を引き合いに出す時点でお察しではあるのですが、ここには中国や韓国に対する明らかな差別・侮蔑意識が窺われます。「好き勝手に歴史を騙られている」と一方的に相手を悪者に仕立て上げ、自分は居直って被害者ぶるというのは所謂「ネトウヨ」や歴史修正主義者の常套手段でありますが、この筆者もまさにそのパターンに陥っているということは言うまでもないでしょう。そして、極めつけは「歴史は後からだって創る事が可能」という豪語です。このように従来の歴史学の研究蓄積を全てうっちゃって、ゼロベースで議論したがるのも歴史修正主義者の特徴でありますが、それを地で行っているという印象を受けます。少なくとも、この筆者の説とやらが「事実化」されることは何千年経とうがありえないでしょう。
 私は歴史モノの「創作」や「歴史小説」を全否定しているわけではありません。しかし、昨今の『艦これ』や『刀剣乱舞』をめぐる情勢を見ていると、「創作」は一瞬にして「偽史」へと移り変わり、それが歴史修正主義と強固に結びつく事例があまりに多すぎると言わざるを得ません。何の根拠もないデタラメを並べ立てること自体にも問題がありますが、いっそう醜悪なのはそうしたデタラメを撒き散らすことに一切の躊躇いや恥ずかしさを覚えないメンタリティだと思います。上で一つ一つ反証したとおり、少なくともカールに関するこれらのエントリは大半が典拠不明の嘘から成り立っています。このような加工を行える人間が他のエントリでは「歴史的」な思考をしているとは思えませんので、当該ブログ全体が歴史修正主義的な色彩を帯びているのだと考えてよいでしょう。他のエントリについては、私は検証する余裕も能力もありませんが、正しい知識と作法を身につけた良識ある方がそれらを否定してくださることを願っています。歴史修正主義は我々の身近に潜んでおり、様々な局面に忍び寄ってきているのだ、と今回の一件で私は強く感じました。仮に百歩譲って歴史学が「何の意味もない、金にならない学問」なのだとしても、こうした俗悪な歴史修正主義を拒絶するだけの力はあると私は信じております。
 最後に、今回のエントリに関連するTogetterまとめを紹介しておきます。ご関心のある方は是非併せてお読みいただければと思います。

  • フィクションの消費と動員、あるいは「『艦これ』を契機に歴史を学ぶ」ことについて(北守氏)

  http://togetter.com/li/728649

  http://togetter.com/li/854543

  • 「ところで艦これ厨は滅ぼされねばならない」内輪ネタの妄想と、歴史の大系について

  http://togetter.com/li/879015

  • 「ところで艦これ厨は滅ぼされねばならない」タグをめぐる補論〜鳥山仁氏に応えて・ほか

  http://togetter.com/li/889851

  • シンポジウム「近代日本の偽史言説 その生成・機能・受容」まとめ

  http://togetter.com/li/897515

『モンスター娘のいる日常』を声優アニメとして観る前に

 こんばんは。以下に掲載するエッセイ「『モンスター娘のいる日常』を声優アニメとして観る前に」は、明日(2015年8月15日)のコミックマーケット88で頒布される、谷部『声ヲタグランプリ』Vol. 15に掲載されるはずだったものです(『声ヲタグランプリ』Vol. 15についての告知はこちら→http://goo.gl/DmOFzR)。
 我らが編集長から、紙幅の都合により(つまり優先順位の関係で)どうしても全文掲載することができないと言い渡されてしまったので、このままボツ・お蔵入りにするのは(個人的に)勿体無いと思い、このブログで直ちに公開することを決めました。
 というのも、仮に次の『声ヲタグランプリ』刊行のタイミングを待つとなると、それは今年の12月末となってしまい、完全に「後出し」になりかねないと思うからです。業績争いごっこをするつもりはありませんが、私にとってかけがえのない作品である『モンスター娘のいる日常』について色々なコメントがなされるのを12月末まで黙って見ているのは耐えられませんので、「鉄は熱いうちに」の精神で5,200字ちょいの本文を全文公開します。
 正直なところ、内容が内容なだけにブログでの全文公開には躊躇いがないわけではありませんが、「言いたいことがあるんだよ!」という思いを抑えきれないので、自ら晒し上げることにいたします。それでは、どうぞ。

 「モンスター娘百覧」(或いはとろとろレジスタンス)、「クロビネガ」(或いは健康クロス)、Vanadis、『コミックアンリアル』。試みに四つの単語を挙げてみたが、この時点で身体が反応した読者諸賢はこのエッセイの続きを読む必要はないかもしれない。この四つの単語は『モンスター娘のいる日常』の周囲に広がる小宇宙の性質を端的に明らかにしている。語弊を恐れずにタグ付けするならば、それは巷で「異種姦」「人外」「捕食」などと呼ばれるものである。このエッセイは、とうとう地上波放送されてしまった『モンスター娘のいる日常』の奥深さを、心ある声ヲタ諸賢に伝えるために書かれた。暫しお付き合いいただきたい。


1 オカヤドと「人外」の小宇宙
 現代史を語ることほど躊躇いを覚えることも少ないわけだが、たとえ蛮勇との謗りを受けようとも書かねばならぬこともある。まず『モンスター娘のいる日常』の原作者、オカヤドという人物について説明したい。オカヤドは2007年2月12日の夜、半角二次元板の「モンスター娘・約28匹目」スレッドに彗星のごとく現れた。「ラミアのいる日常」と題された1ページ漫画を皮切りに、オカヤドは「○○のいる日常」シリーズを断続的に掲示板へ投下するようになり、彼の作品は瞬く間に世界中の「人外」ファンを熱狂の渦に巻き込んだ。その熱狂は「隔離スレ」的なコミュニティに特有の静かな盛り上がりではあったが、オカヤドをこの小宇宙における伝説的な存在に押し上げるには充分なものであった。なお、このシリーズは2008年12月23日以来、オカヤド本人によってPixivに転載されてきたため、現在も容易に閲覧することができる。


 オカヤドの作品は当初からモンスター娘との「イチャラブ」展開を主軸にしている点で特徴的であり、異形の存在(外形的に雌型をしていても性別のない無機物をも含む)に性玩具として弄ばれたい、或いは終わりのない快楽の中で発狂させられたい、或いは種馬として徹底的に搾精されたい、或いは単に餌として捕食・消化されたいといった願望を有する過激派の「人外」ファン層にとっては生ぬるく物足りないものであったかもしれない。一つ別の例として『Girls forM』を挙げれば、主人公が身体的・精神的に壊される展開を望むか否かについてファンの間で意見の一致を見ておらず、過激派と穏健派の双方に訴えかける作品を想定するのは極めて難しい現状にある。それと同様に、「人外」の小宇宙にも物語の展開や人外部位の割合などをめぐって様々な派閥があり、一つのジャンルとして単純に理解することはできない(「クロビネガ」の投稿SSの感想欄を眺めてみればよい)。要するに、この小宇宙において平均値を求めることは無意味であり、オカヤドがメイン・ストリームに位置しているのか否かは相対的な問題でしかないが、一つだけ確かなのは、この小宇宙が御し難い異常性を秘めているということなのである(異常性という用語法については後述する)。


2 「異常性」対「普遍性」
 さて、『COMICリュウ』というプラットフォームのおかげか、『セントールの悩み』や『ヒトミ先生の保健室』といった作品群が順調に巻数を重ねている昨今、ともすれば「人外」的要素が市民権を得たかのように錯覚されるかもしれない。しかし、こうした錯覚は表現や趣味嗜好の異常性を隠蔽・緩和してしまい、議論の筋を悪くするおそれがある。異常性という強い言い回しに不快感を覚える人もいるだろうが、もう少しの辛抱をお願いしたい。


 「表現の自由」を論ずる際には、法の次元と倫理の次元を峻別しなければならない。例えば、コミックマーケットで受け取った紙袋に少女のあられもない肢体が描かれているという状況を想定してほしい。電車での帰り道、貴方はこの紙袋を隠して乗車するだろうか、それともこの紙袋を堂々と陳列したまま乗車するだろうか。筆者はたまに、こうした露骨な性表現は「表現の自由」によって保護されているのだからコソコソ隠す必要などない、という主張を耳にするが、この主張には法の次元と倫理の次元との混交が見られることを指摘しておきたい。昨今の表現規制問題をめぐる漫画家たちの主張にも同様の混交が散見されるが、ここで確認すべきは、ある表現が「表現の自由」によって法の次元で保護されていることと、それが倫理の次元でも普遍的に受容されることは別問題だということだ。言い換えれば、「表現の自由」とは倫理の次元では到底受容されない異常性を保護するための防壁だということになる。「表現の自由」は(一定の限界こそあれど)表現自体の異常性を問題としない点で魅力的だが、この法の次元は倫理の次元から切り離されているということを忘れてはならない。この峻別を疎かにすると、途端に表現規制問題をめぐる議論の筋が悪くなる。


 既にお分かりかもしれないが、異常性という用語はここでは普遍性の対義語として使われている。そして、普遍性は倫理の次元において支配的な価値となっている。だから、世に言う異常性癖なるものは、倫理に対する宣戦布告の文脈で「異常」とされるのである。ある表現に「異常」のレッテルを貼ることは、「表現の自由」の放棄などでは断じてなく、むしろ「表現の自由」を効果的に利用するための現状把握なのだ。筆者が「人外」の小宇宙に「異常」のラベリングをしたのも害意あってのことではない、ということを読者諸賢にはご理解いただきたい。


3 異常性を愛好するということ
 法の次元と倫理の次元を峻別する伝統を持つ地域では、異常性の側に立って倫理と対峙するには相当の覚悟が必要だ。何となれば、それは普遍性、すなわち全世界を敵に回すことなのだから。さて、異常性の側に立つ営みの一つが文学と呼ばれるものである。サルトルが文学の性質を悪と看做したのに対して、ロラン・バルトは「エクリテュール」という概念を持ち出して作家のある種の社会的責任を説いたが、こうした悪や異常性をめぐる論戦は「普遍性」の存在を前提としている。『超訳 ニーチェの言葉』などがベストセラーになる本邦では実感がないかもしれないが、彼らは多元主義相対主義を通じて悪や異常性を隠蔽・緩和することが許されないほどの厳しい価値対立の中に身を置いていたのだ。


 法の次元と倫理の次元との混交が生じ、異常性と普遍性との境界が融解している本邦では、価値対立の中で異常性を選び取ることの重みが理解され難いのかもしれない。この点で、田山花袋が作家としての「切実な問題意識」に欠けており、悪や異常性すらも引き受ける文学の営みを「善良なる市民」のものに脱色してしまった、という福田恆存の指摘は傾聴に値する(田山花袋『蒲団/重右衛門の最後』、新潮文庫版の解説を参照)。現在「人外」の小宇宙に暮らす多くの者たちも、花袋同様に「芸術家の才能なくして、芸術家に憧れる」健全な市民なのではないだろうか。


 だとすれば、「人外」ファンに改めて求められる態度は、自分の愛好するジャンルがひょっとすると倫理の次元では受容されないものなのかもしれないと反省し、その上でなお「人外」の小宇宙に居座る覚悟を固めることなのではないだろうか。「人外」が好きで何が悪い、むしろ「人外」こそがメイン・ストリームであるべきだ、「人外」ファンが大手を振って歩けるようにしろ、などと過激な主張を行う者が増えやしないかと、筆者は常々恐れている。その恐れが私にこのエッセイを書かせた動機の正体でもある。


4 筆者の遍歴
 さて、ここまで一般的な話を続けてきたが、上から目線の説教がしたいわけでは毛頭ないので、ここで筆者自身が「人外」の小宇宙に辿り着くまでの経緯を披瀝することにしたい。筆者の本格的な性の目覚めは、小学校高学年の時に「Kekeo’s Ballbusting World」というサイトに出逢ったことに起因する。そこで「Pussy Envy」の翻訳を一気に読んだ時の衝撃は今でも忘れない。性の目覚めといっても、解放としての自慰を覚えたのは高校二年生の時だったので、筆者は解放以前にかなり長い貯蓄の期間を過ごしたわけだが、その間に「急所蹴りの美学」、「ヌギスタ学園」、「Girl Beats Boy」、「サキュバスの巣」、「アマゾネスの宴」などを経て、とうとう冒頭でも書いた「モンスター娘百覧」に到達したのだった。簡潔に言えば、筆者は「金蹴り」から被虐の世界に入門し、少しずつ位相の異なる被虐属性へと誘われながら、妖女・モンスター娘に犯されるという世界に迷い込んだというわけだ。だから筆者にとって、モンスター娘との「イチャラブ」展開や、モンスター娘の主食は人間男性の「精」であるとかモンスター娘は人間男性を傷つけないとかいった設定は全て「後付」に思われた、ということを告白しなければならない。何となれば、筆者にとっての「人外」の小宇宙とは、被虐の小宇宙の一部をなしていたのだから。


 中学一年生の時に「ヌギスタ学園」を無邪気に同級生に勧めてドン引きされて以来、この手の趣味は「隠して」生きていかなければならないのだという意識が、筆者の中には燻っている。成長過程で多くの同級生が興味を抱いた性表現に全く昂ぶりを感じない、というある種の不感症の体験が筆者を後ろめたい気持ちにさせる。そして、テクストサイト偏重の体験が、画像よりも文章表現に興奮するという筆者を形成することにもなった。筆者は「人外」の小宇宙に閉じ籠もって、趣味嗜好について語り合う相手を持たないまま数年を過ごしたのである。そんな筆者にとって、オカヤドがいつの間にか商業デビューを果たし、「人外」ジャンルが少しずつ普及し始めた様子はあまりに眩しく映った。だがそれは「故郷に錦を飾ってくれた」という喜ばしい感情ではなく、むしろ「このジャンルがスケープゴートにされるのではないか」という警戒感を伴っていたのである。


5 異常性は声優によって隠蔽されるのか?
 『モンスター娘のいる日常』がアニメ化され、さらに地上波で放送されているという事実が、どれだけ筆者にとって信じがたいことであるか、少しでも読者諸賢に伝わったのなら幸いである。最後に残る問題は、オカヤドの描いたキャラクターたちが女性声優の声で喋り出すということだ。そう、アニメ化によって異常性は声優性を帯びて現前することになる。


 声優が役柄や作品の宿す思想に溺れてしまう可能性、ならびに声ヲタが声優を「悪影響」から防衛することの不可能性については、これまで幾度も述べてきたので敢えて繰り返すことはしない。ここで新たに問題にしたいのはキャスティングである。『モンスター娘のいる日常』のキャストを眺めてみると、ミーア役に雨宮天、パピ役に小澤亜李、マナコ役に麻倉もも、ティオ役に久保ユリカなど、ピンチケが好みそうな(偏見)今をときめく女性声優を揃えてきたなという感じであり、11月15日に日比谷公会堂で開催されるイベントが「作品ファン感謝祭」として機能するのかどうかについては不安が残る。


 とはいえ、セレア役に相川奈都姫、スー役に野村真悠華と新人を配する一方で、墨須役に小林ゆう、ゾンビーナ役に持月玲依を配するなど、当世風でありながら渋さも感じさせる面白いフォーメーションになっていることは疑いえない。さらに、メロ役には山崎はるかを登用しており、日ナレメソッドによってロイヤル感に説得力を持たせようとするなど、一々面白いフックが取り付けられていて、「声優アニメ」として間違いなくよくできている。とりあえずこのくらいにして、詳細なリヴューは『声ヲタグランプリ』16号の担当者に譲ることにしよう。


 最後に問いたいのは、今をときめく女性声優の魔力によって、縷々述べてきた異常性が隠蔽されるのかということだ。2013年のポケモン映画『神速のゲノセクト』で、水ゲノセクト諸星すみれの声で話し始め、涙を流したとき、貴方は「このゲノセクトならいける」と思っただろうか、それとも「却ってゲノセクトのグロテスクな形状を際立たせただけだ」と思っただろうか。いずれにせよ、異形の存在が女性声優の声を発したとしても、それが異形の表象であることには変わりはない。同様のことが『モンスター娘のいる日常』にも当てはまる。つまり、仮に異常性が隠蔽されたと感じるとすれば、それは声優の力によって実際に隠蔽されたのではなく、声ヲタがそう解釈しただけだということになる。それぞれの声優が普遍性と異常性とのせめぎあいを自覚しているかどうかは分からない。しかし、声ヲタが異常性に対する意識改革を遂げることはできる。普遍性と異常性との鋭い緊張関係を自覚した声ヲタは、異常性に対して甘い態度を示してしまう人々よりも遙かに深く『モンスター娘のいる日常』を味わうことができるはずだ。


 さて、タイトルに立ち返ろう。『モンスター娘のいる日常』を声優アニメとして観る前に、何が奨励されるのか。ここまで辛抱強くお読みいただいた読者諸賢にはもうお分かりだろうから、敢えて多言は弄すまい。このエッセイが皆様に「人外」の小宇宙への扉を開くきっかけになれば、筆者にとっては望外の喜びである。

余は如何にしてアイドルヲタクとなりし乎(第2回:新生NEXT少女事件の船出)

 前回の続きです。
 「今日は秀梨ちゃんいないけど……」という乃々ちゃんのアナウンスから何となく嫌な感じはしていたのですが、この「無断欠席」から僅か2日後、NEXT少女事件のセンター・秀梨は脱退することになってしまいました。

 8月23日のライヴ直後の私のつぶやきは、叶わないものとなってしまいました。以下、公式ブログからの引用となります。

日頃よりNEXT少女事件を応援いただきありがとうございます。
初めに、先日8月23日のライブ当日秀梨が出られなくなり、急遽2人でのライブになってしまい申し訳ありませんでした。
出演できなくなった理由は秀梨とライブ当日から連絡が取れなくなったためです。

今もまだ連絡が取れていなく、メンバーと運営で話し合いを行った結果、8月25日本日をもちまして秀梨はNEXT少女事件から脱退という形をとらせてもらうことにしました。
理由としては、秀梨自身が前々から運営の事や、メンタル面の事をメンバーに相談していた事。自分の将来を見据えてのやりたい事があることです。
本人から直接聞いたわけではないので、本心は分からずのままですが、メンバーから詳しく聞いたところアイドルを続ける事が出来ないと判断いたしました。
ただ運営として秀梨に気付いて対処してあげられなかったことを非常に残念で申し訳なく思っております。

このような形で突然の発表になりまして今まで応援してくださっていたファンの方達に深くお詫び申し上げます。


今後のNEXT少女事件について。
乃々、舞、共にNEXT少女事件を続けたい一心でいます。ライブも通常通り行っていきます。ワンマンライブも必ず行います。
2人ともNEXT少女事件での夢を持っていて、それを見据えて頑張っています。まだまだスキルアップし、いろんなことに挑戦していくつもりです。
これからもNEXT少女事件はメンバー、運営共々精進していきますので、なにとぞよろしくお願いします。


返金、予約キャンセル対応について。
ワンマンライブの前売チケット、ライブ、BBQオフ会の予約キャンセル、秀梨の落書きTシャツを預けた方。
上記のものにつきまして、返金対応をさせていただきます。
下記アドレスに一度お名前と商品名を送ってください。各々銀行振り込みにて対応いたします。

http://ameblo.jp/shoujo-ziken/entry-11915062406.html

 「ライヴアイドルの世界は入れ替わりが激しく、すぐにメンバーが辞めてしまいかねないので、“次”があるかどうかは誰にも分からない。会える時に会っておいた方がいい」という旨の発言はあちこちで目にしていたのですが、実際に体験すると非常にショックが大きく、信じられない気持ちで一杯になりました。断っておかなければなりませんが、私は以前から秀梨を「推していた」わけではありませんし、秀梨脱退の段階でNEXT少女事件の現場にはまだ3回しか行ったことがありませんでした。ですから、ショックの度合いとしては以前からの共犯者の方々の足元にも及ばないでしょう。しかし、私にとってNEXT少女事件が最初の「ハマった」ライヴアイドルである以上、この脱退については「大地震」として整理しなければならないのです。一瞬の強震は、あまりに現実味がなくて、私は何も考えられない・信じられない状態に陥りました。「裏切られた」という気持ちではなく、単に「信じられない」という気持ちでした。事実は小説より奇なり。こうした強震に「慣れて」しまわぬようにしなければなりません。
 私の立ち直りは意外にも早いものでした。というのも、その立ち直りのきっかけをくれたのもまた、2人体制になった新生NEXT少女事件だったからです。2人体制になってからの最初の出演は、8月27日にclub citta'で開催されたUPSTART GIRLS FES〜柊木りお『輪廻の恋』レコ発SPECIAL〜」でした。平日の昼間からのイベントでしたが、「絶対に行かなければならない」という強い思いが湧き上がりました。「支える」系ヲタクを自認しているつもりはありませんでしたが、自分が好きになったものには責任を持ちたいという私の信念からして、秀梨脱退後も活動を続けようと頑張る2人の姿を目に焼き付けないという選択肢はありえませんでした。私は祈るような気持ちで、川崎へ向かったのでした。
 平日のイベントということで、正直なところフロアはかなりガラガラでしたが、2人は懸命なパフォーマンスを見せてくれました。「マジで事件じゃねーか」などと脱退を揶揄する書き込みも見られる中で、ステージ・物販を笑顔で貫き、気丈な振る舞いを見せてくれた2人を見て、私は秀梨脱退に起因するモヤモヤが全て吹き飛ぶ心地がいたしました。私がもっとも胸を打たれたのは、秀梨が作詞した「秒速バイタルサイン」を2人が歌い継いだことです。縁起が悪いなどという理由でお蔵入りにする選択肢もあったと思うのですが、運営も含めてその選択肢は取らず、「秒速バイタルサイン」と正面から向き合う姿勢を貫徹したのは好印象でした。「よし、ついていくぞ」とハッキリ思ったのは久々でした。それは、自分がハマったのが「気の迷い」でないことが証明された瞬間でもありました。
 残酷なifですが、もしあのまま秀梨含めた3人体制が続いていたら、ひょっとすると私は「飽きて」しまっていたかもしれません。あの時確かに、秀梨脱退という「大地震」の中で、運営・メンバー・共犯者は動揺を共有していたのではないでしょうか。厳しい試練が人を成長させ、絆を強固なものにするなどと、通俗的でセンチメンタルなことを言いたくはありません。しかしそれでも、あの「大地震」なしには私の覚悟は固まらなかったでしょうから、あの「大地震」を「なかったこと」にすることは、私にはできないのです。
 そして何よりも、「秒速バイタルサイン」が歌い継がれているという事実が重要です。秀梨は「なかったこと」にはならなかった。(悪趣味な喩えですが)「秒速バイタルサイン」はある種の鎮魂歌として響き続けることでしょう、それが鎮魂歌であると認識されなくなる日まで。公式サイトのBiographyも、秀梨の脱退をきちんと記載しています*1。後から見ればなんてことのない一行ですが、この一行を忘れることなく、向き合うことから生まれる勇気というものを、私は新生NEXT少女事件から受け取ったのです。勿論、私が特段に秀梨を「推していた」わけではない、という前提は無視できるものではないのですけれども。
  この一連の出来事は、「目撃証人」としての私と「共犯者」としての私の明確な分水嶺となったのでした。
 声優タグを付けつつ、今回は声優の話を一切せずに終わってしまいました。次回はWake Up, Girls! 1st Live Tourのクライマックスと絡めつつ、文章を紡いでいこうと思います。

(つづく)

○ライヴ動画紹介:「adolescence」(2014.10.04 at 鶴舞DAYTRIP

余は如何にしてアイドルヲタクとなりし乎(第1回:NEXT少女事件との出逢い)

 最近、コレニキメさんのエントリ*1が話題になっているので、それに触発されて、私も今回から数回かけて「アイドルヲタク」となった自分について整理してみたいと思います。前回のエントリ*2の直接的な続編というわけではありませんが、digressionもつきものだということでご寛恕ください。
 なお、最初にお断りしておきますが、私は声ヲタやアニヲタをやめたわけではありませんので、アイドルヲタクへの「転身」とか、声優現場からの「他界」とか、そういった話は一切出てきません。さらに、このようなタイトルをつけていますが、既にお分かりの通り英文エントリではありません。こうした点についてもご寛恕ください。
 さて、「余は如何にしてアイドルヲタクとなりし乎」ですが、これは当人である私が一番驚いているところでありまして、偶然に偶然が重なって、まるで何かに導かれるようにアイドル現場に通うようになってしまった、というのが正直な印象です。しかし、これではあまりに漠然としていますので、以下で少しずつ具体的な話をしていきたいと思います。
 まず、一口に「アイドル現場」といっても十人十色、千差万別でありまして、このカテゴリは「声優現場」や「アニソン現場」と同じレヴェルの大きな括りでしかありません。「アイドル現場」というレヴェルで語っても、それは何も語っていないに等しいのではないでしょうか。余程のDDでない限り、声優現場にせよアイドル現場にせよ、「主戦場」が存在するはずであり、やはりそこを起点に話を進めていく必要があります。私の場合、「アイドル現場」における「主戦場」は、NEXT少女事件*3です。従って、NEXT少女事件との邂逅から話し始めるのが適切でありましょう。
 私がNEXT少女事件と出逢ったのは、2014年7月27日にディファ有明で開催された、Tokyo Idol Gate "Pure"(以下、TIGと呼称)でした。私がこのアイドル系フェスに参加していた元々の目的は、2011年10月頃から『R-15』の関係で通い始め、現在まで足繁く通っている「アニ☆ゆめ」のメインステージを観覧することでした*4。NEXT少女事件の出番は、その「アニ☆ゆめ」の出番の一つ前でありまして、「アニ☆ゆめ」の出番のために前もってフロアで待機していた私は、必然的にNEXT少女事件のステージも見ることになりました。そこからは、まさに電撃走るといった表現が適切でした。元々激しめの音楽が好きで、milktubをきっかけにd2bDEARDROPSへと嵌り込んだ私にとって、硬派なリフと反抗的な歌詞で攻め立ててくるNEXT少女事件のインパクトがどれほどのものだったか、筆舌に尽くし難いものがあります。フロアでツーステップ(当時はまだこの名称を知りませんでしたが)を踏むヲタクたち、サークルピットで暴れるヲタクたち、ステージで中指を立てFuck you! を連発するアイドル。「これは本当にアイドルなのか? パンクバンドか何かの間違いじゃないのか?」 私はそう思わざるをえませんでした。つまり、この衝撃的な邂逅は、私のキラキラした「アイドル現場」イメージを粉砕し、参加へのハードルを著しく下げてくれたのです。
 私はTIGの後も、NEXT少女事件のことが気になって、頭から離れませんでした。そして、自分の気持ちが一時の「気の迷い」でないのかどうかを検証し、NEXT少女事件を「見極める」ために、いずれはもう一度彼女たちを見に行かなくてはならないだろう、と思いました。その機会は意外にも早く訪れました。2014年8月4日(Wake Up, Girls! 決起集会×3の翌日)に目黒鹿鳴館で開催された、『断然LIVE』#5。この時は勇気を出してサークルピットに飛び込みました(荷物のせいでモッシュには混ざれませんでした)。とにかく楽しかったのを今でも覚えています。あまりに楽しかったのでどうしてもメンバーと話したくなりまして、終演後物販にドキドキしながら並んだことも記憶に新しいです。この物販が初めてのツーショットチェキ体験になりました(相手は舞ちゃん)。あの時はTwitterのアイコンを示しながらアピールする変な奴になっていましたが、今となっては思い切って自己紹介してよかったと感じています。
 以下、当時のツイートを掲載しておきます。

 こうした鮮烈な出逢いを経て、私はNEXT少女事件の「共犯者」(ファン)への道を着実に歩み始めることになったのですが、次にNEXT少女事件の現場に行くまでには少しブランクがありました。というのも、当時はWake Up, Girls! 1st Live Tour「素人臭くてごめんね!」の真っ最中で、8月10日・台風やリーダーの不調で伝説となった大阪公演、8月17日・事前物販打ち切りと音響トラブルで伝説となった東京公演を、私は駆け抜けている只中だったからです。そんなわけで、8月4日の目黒鹿鳴館に続く参戦は、8月23日にAKIHABARA TwinBoxで開催された、「アキバ千円」まで持ち越しとなったのです。待ちに待った通算3回目のNEXT少女事件のライヴ。しかし、そこにはセンターである秀梨の姿はありませんでした……。

(つづく)

○ライヴ動画紹介:「秒速バイタルサイン」(2014.06.18 at TSUTAYA O-EAST

*1:http://korenikimeblog.tumblr.com/post/101759936397

*2:http://d.hatena.ne.jp/rasiel9713/20141014/1413215646

*3:http://www.shoujoziken.com/

*4:「アニ☆ゆめ」については説明すると長くなるので、公式サイトをご覧ください:http://www.aniyume.jp/

Wake Up, Girls! × 聖地巡礼(仙台)

 以下に掲載するのは、コミックマーケット86で頒布した谷部(id:tani-bu)『声ヲタグランプリ』Vol. 13に寄稿した、『Wake Up, Girls!』特集企画の一部をなすものです*1
 この文章が書かれたのは、2014年8月10日、台風が迫る中で開催されたWake Up, Girls! 1st Live Tour「素人臭くてごめんね!」大阪公演の後、同年8月17日に開催された東京公演の前という絶妙なタイミングです。私は大阪公演昼夜、東京公演昼夜、仙台公演昼夜とツアー全公演に参加し、色々思うところがあったものですから、たかだか2ヶ月前に書かれた自分の文章であるにもかかわらず、現在これをそのまま受け入れることには躊躇があります。しかし、2ヶ月前の自分の心の叫び、心の澱の吐露を、手を加えることなく公表することこそが、fairnessの精神に合致すると思いますので、寄稿した原稿をそのままこのエントリで公開することにしました。
 6月末のゲオ缶バッジイベント以来、どこか「ワグナー」に油断していた私は、仙台の千秋楽公演を経て散々に打ちのめされ、「やはりこうなるのか」という思いに苛まれました。この点については、Togetterにまとめられていますので、興味のある方はご覧ください*2。私のtweetsもいくつか含まれています。私は以前から『Wake Up, Girls!』ファンではあっても、「ワグナー」という謎の集団に帰属させられることには強い抵抗感を覚えてきましたが、最近はますます、自分の基準からすると「ヲタク同士の馴れ合い」にしか見えない状況が悪化の一途を辿っているように感じられ、このままだと他のヲタクに対する嫌悪感が『Wake Up, Girls!』に対する愛着を上回ってしまいそうで恐ろしいので、私のポジションを再確認するために、夏コミ原稿を公開することを決意したのです。
 私の後輩は「イベントは演者を観に行っているのであって、観客を観に行っているわけではないだろう」と私に言いました。確かにそうです。しかし、どうしても「ウザい」観客、「悪目立ちする」観客は目についてしまい、私の脳内にこびりついて離れないのです*3。「嫌な思いをしたくない」という悩みが高じた結果、現在の私がどうなってしまったのかは、Twitterを見ていただければ一目瞭然かと思いますが、これについては別の機会に書くことにしましょう。
 それでは、以下、夏コミ原稿の全文8,965文字です。

 あなたは、声優が「待っていてくれる」という経験をしたことがありますか?


 『WUG』は言うまでもなく、日本の一地方都市である仙台を舞台にした作品です。本稿では、このことがどれほど私にとって大きな意味を有しているのか、という点をメインに書いていきたいと思います。これはある種の告白であり、それゆえに「です、ます」調の選択も、意図的なものがあるということは、はじめに断っておかなければなりません。そして、時に自分をさらけだすことの悦楽に身を委ねて、無責任なことを述べるおそれがあるということもお断りしておきます。つまり本稿は、コラムの形式をとってエセーと自叙伝との中間物を生み出そうとする試みである、とご理解ください。


1


 私は一九九一年一月一九日一四時五九分、仙台市泉区に産声を上げました。全てはここから始まっているので、私はどうしてもこの点にこだわらなくてはなりません。仙台という街は「杜の都」や「東北のニューヨーク」などと呼ばれ、政令指定都市の一つでもありますが、決して華やかな街ではありません。それを「落ち着いた佇まい」と評価するかは人それぞれですが、私にとっては、仙台とは端的に「中途半端」な街であり続けてきました。これは意外にも知られていないことのようですが、実は仙台はいわゆる「アニメ僻地」です。今でこそ、BS11AT-Xのおかげでアニメ回収は楽になりましたが、地上波だけで見てみれば、一クールに放送されている深夜帯のアニメは片手の指に収まってしまうのです。ですから、私は物心ついたときから一八歳で仙台を出立するまで、アニメというものをほとんど観たことがありませんでした。レンタルやケーブルテレビを利用せずにリアルタイムで観たのは『ハルヒ』と『らき☆すた』くらいのものです(いずれも山本寛が深く関わった作品であるというのは皮肉なものですね)。


 私が自分をいわゆる「ヲタク」であると認識したのは中学生の頃でしたが、その頃から高校生時代にかけて、私はアニメを「ヲタク」文化の中でも低次のものとして敬遠していました。アニメイト仙台店に入り浸り、アニメ雑誌を広げては歓談する「ヲタク」連中を心の中で嘲笑し、軽蔑さえしていたのです。それは今思えば、自分がアニメ文化の中心地から遠ざけられているという悔しさを正当化するための無意識の自己防衛だったのかもしれません。そうした軽蔑の反面で、私は「アニメがたくさん見られるから」東京に住みたい、東京の大学に通いたい、などと豪語していたという事実も、自己防衛の仮説をさらに裏付けてくれるように思います。そして、アニメから隔てられていたということは、声優から隔てられていたということでもあります。私は当時水樹奈々というのが誰か分かりませんで、よく分からないにもかかわらず、水樹奈々ファンであることを自称する同級生(ちなみに、彼は「歌手」としての水樹奈々が好きでした)を憎んでいました。私は、私が消費できないコンテンツを楽しんでいる人間が嫌いでした。


 仙台の「中途半端」さはアニメ視聴環境にとどまりません。既に述べたように、私は一八歳まで声優に関心を抱くことは殆どありませんでしたし、ライヴに参加したことも一度もありませんでしたが、それでも、仙台で開催されるイベントやライヴの数が恐ろしく少ないというイメージを持っていました。今思えばそれは誤解の側面も大きかったのかもしれませんが、大規模で有名な展覧会やイベントは軒並み東京に集中しており、多くのライヴツアーは東名阪に収まり、全国ツアーが組まれても仙台を通り越して札幌へ飛んでいくというパターンは実際問題として多く、仙台は文化的に遅れた街であるという私の偏見は強まる一方でした。唯一の救いは両親でした。私は家庭環境については何らの不満もありませんでした。家庭の安定がなかったら、私は壊れていたと思います。両親は私が幼い頃から、私を県外の様々な場所へ連れていってくれました。しかし、そうした思い出は少しずつ記憶の彼方へと消え去っていきます。客観的な事実としては、私は仙台に縛り付けられてなどいなかったのですが、当時の私の意識の上では、私は県外に殆ど出たことのない田舎者であって、「中心」から遠ざけられていたのです。ですから、私は今でも仙台市外の宮城県民や宮城県以外の東北民から「仙台は充分都会なのだから文句を言うな。私の出身地の方が遥かに発展性のない田舎だ」という旨の言葉を吐き捨てられるたびに、深く傷つきます。仙台は明らかに、私の中では「都会」などではないからです。


 そして、仙台は「中途半端」な街であるとともに、盛り上がりに欠ける街です。独自性に乏しく、「おらが街」感のない街です。確かに、東京などの大都市圏と比べれば人混みも喧騒も少なく、牛たんやずんだなど美味しい特産品があり、生活必需品は市内で容易に手に入るため、数日間出張で滞在するだけならこれほど住みよい街はなかろうとは思います。しかし、この街に住居を構えて定住するとなると、途端に貧弱なインフラと娯楽の少なさが襲ってくるのです。私は未だに、仙台の若者がどこでどのように週末を楽しんでいるのか、全くイメージできません。遊ぶにしても、ショッピングをするにしても、仙台といえばここだ、と言うべき代表的なスポットは殆ど皆無に近く、カラオケやゲーセン、ボーリング場といったどこにでもある娯楽施設か、パルコやロフトのような他の大都市圏の真似事スポットくらいしか時間を潰すところは見当たらないのです。そのせいかは分かりませんが、仙台民は自分の街に対する「帰属意識」とでも呼ぶべきものが希薄であるという印象を受けます(最近流行りの「マイルドヤンキー」論についてはよく分かりません)。仙台は「おらが街」自慢がとにかくしづらい退屈な街で、どこか嫌な閉塞感の漂う街なのです。


 こうした仙台という街の属性を前提として『WUG』を考えると、仙台を舞台に選んだのはまさに正しい判断だったと思わざるをえません。嫌な物語の舞台として、これ以上に相応しい嫌な街はそうそう存在しないでしょう。また、この点は「聖地巡礼」を考える際にも重要な論点となりますので、記憶にとどめておいてください。
 

2


 本稿の読者の中に、阪神淡路大震災新潟県中越沖地震などを実体験された方は、どれほどおられるのでしょうか?


 私は二〇〇九年三月末に上京し、四月から大学生の身分となりました。私は当初、いよいよ念願の「中心」に辿り着くことができたという達成感と高揚感で一杯でしたが、そうした感情は長続きしませんでした。地元仙台で最後の砦として機能していた家族から切り離され、一人暮らしが始まると、私は東京という街のグロテスクさに嫌気が差すようになりました。あれほどまでに懇願していた「中心」は、実は見せかけのハリボテのようなものに過ぎず、実質的には果てしない空虚と軽薄が支配する荒涼地だったのです。私は東京での最初の一年間、大学のクラスメイトの大半と不仲に陥ったことが原因で、恐るべき精神的危機を味わいました。自分が荒れた「公立」中学校から「公立」男子校という時代錯誤もいいところの教育機関を経て、華々しい東京の大学に頼る人もなくやってきたということに起因する異物感と苛立ちが、私を不安のどん底へと叩き込みました。


 ここに来て、あれほどまでに嫌っていた仙台の出身であるということが、「私は異物だ、異常だ」という自意識に呼応して、重要なアイデンティティの基礎に据えられ始めたのです。しかもそれは、「東京はうんざりだ、仙台に帰りたい」という郷愁の念などではなく、「仙台におめおめ逃げ帰るわけにはいかないが、東京では仙台出身の異物として生きていかなければならない」というねじまがった思いでした。私にとってホウムシックと郷愁の念は全くの別物です。繰り返し述べているように、私は仙台に「縛り付けられて」いたときから既に、家庭が唯一の拠り所でしたから、東京で一人暮らしを始めた後も、温かい家庭が恋しくなることはあっても、仙台そのものに対する愛着は全く生まれませんでした。仙台を嫌い続けることを通じて異物であり続けることしか、私にはできなかったのです。


 そんな仙台に対するアンビヴァレントな思いの一つの転機となったのが、もうお分かりかと思いますが、二〇一一年三月一一日の東日本大震災です。この大震災を心境の変化のきっかけとして引き合いに出すのが「ありがち」とされてしまうほどに、この大震災は大きな爪痕を地表面と人々の心に残しましたが、それは私にとってもそうでした。あの瞬間、私は東京の下宿先にいました。三日前までは実家に帰省しており、東京に戻ってきて早々に大震災の前震とも言うべき大きな揺れに襲われ、その二日後に恐るべき自然の猛威がさらに降りかかってきたのです。揺れが収まって、急いでテレビをつけた私の目に飛び込んできたのは信じられない光景でした。地震自体による倒壊は殆どなかったものの、その後にやってきた津波は、映画よりも特撮よりもえげつないスケールで、私の出身地の沿岸部を押し流していったのです。実家への電話は全く繋がらない状況が続き、家族の安否も分からない状態で、凄惨な被害映像を見せつけられることしかできない私は、完全に傍観者でした。しばらく一日中テレビをつけっぱなしにしている生活を送った後、私はテレビをつけるのをやめました。拡大し悪化の一途を辿る被害の様子をずっと見ていたら、参ってしまいそうだったからです。


 かろうじてスカイプツイッターは繋がったので、同年代の友人やかつての同窓生の安全を確認することはできました。家族や親戚についても、普段から身近に接していた範囲内では死傷者は誰もおらず、私はとりあえず胸をなでおろしました。しかし、ここからが生き地獄の始まりでした。電気、ガス、水道といったライフラインの復旧は予想以上に遅れ、支援物資やガソリンを巡る大行列、それに伴う交差点の大混乱、水洗トイレの機能不全など、厳しい日々が始まったのです。こうした厳しい状況の中で一日一日を生きていかなければならない彼らが、東京でぬくぬくと暮らしている私と話している余裕など殆どありませんでした。彼らにとって大震災は生の現実に他ならず、それを約四〇〇km離れた東京の地から心配することしかできない私は、彼らと苦しみを分かち合うことのできない存在となったのです。まだまだ厳しい寒さが続く仙台で、暖を取ることもできずに震えて夜を明かし続けた彼らの大変な思いを、同郷人であるにもかかわらず、私は一生受け止めることができなくなったのです。ただ一つ指摘しておきたいのは、電気が復旧しなかったために、現地の人々が精確な被害状況を把握したり、例の津波映像を目の当たりにしたりするのは大分遅れたということです。客観的な被害状況が見えてしまう側と、主観的な目の前の厳しい現実に打ちのめされる側とでいずれがヨリ苦しかったのか、敢えて論ずることはしませんが、私にとって重要なことは、大震災との関係で今度は故郷の「中心」から遠ざけられることになったということなのです。


 家族や友人は異口同音に「お前はあのときここにいなくてラッキーだった」旨、私に言いました。誰一人としてたまたま仙台から「脱出」していた私に恨み言を言う人はいませんでした。それはそうなのでしょう。私だって、好んであの状況を追体験したいなどと愚かなことを思っているわけではありません。しかし、阪神淡路大震災や新潟中越沖地震を「向こう側」の出来事としか思っていなかった幼き私が、いまや東日本大震災までもある種の「向こう側」に追いやるという、この上なく残酷な所業に加担してしまうとは。これは私の咎です。私が体験した最大級の地震は、二〇〇八年六月の岩手宮城内陸地震のままにとどまっているのです(この地震はあまり知られていないようですが、山間部の地形が大きく変わる程度には大きなものでした)。仙台を嫌いつつもギリギリ保たれてきた私と仙台との紐帯でしたが、大震災を経てそこには大きな亀裂が入ってしまいました。私は仙台の「よそ者」になってしまったのではないか、私は仙台を語る資格を失ったのではないかという思いは、今なお完全には拭い去ることができません。そんな私の傷口に塩を塗りこむようにやってきたのが、『WUG』という作品の制作発表だったのでした。


3


 話が前後して恐縮ですが、私が上京後初めて参加した講演会は、二〇〇九年四月二五日に東京大学駒場キャンパス七四一教室で開催された東浩紀福嶋亮大の対談イベントです。この講演会は、著作そのものと物書きの人格との間には大きな隔たりがありうるということをウブな私に思い知らせてくれたかけがえのないもので、私の心に深い傷を残すことになりました。また翌年には、その年の文学フリマで発刊された某アニメ批評同人誌の執筆陣と馬が合わないという経験をしまして、有名な批評家の取り巻きじみた自称「批評クラスタ」への深い失望と軽蔑の念を抱くに至りました。さらに山本寛の「煽り耐性」の無さがネットで散々話題になったということもダメ押しで、「こんな人だとは思わなかった」という案件が(日常生活も含めて)次々と積み重なり、私は何も信じられない状態に陥りつつありました。そんな私が、二〇一一年一月から放送された『フラクタル』に対して取る姿勢は一つしかありませんでした。「視聴しない」ということでした。


 今思えば、山本寛東浩紀の被害者の一人だったのかもしれませんが、『フラクタル』の「大コケ」と山本・東の決別は、当時の私にとっては冷笑の対象でしかありませんでした。時系列的には、こうした穿った姿勢の醸成の後に東日本大震災が位置しています。ですから、山本寛が仙台を舞台に『WUG』という企画を立ち上げたときは、「山本寛に私の故郷が蹂躙されるのではないか」という恐怖を感じ、まさに戦慄したのです。山本寛の評判がこれ以上下がっても別に構いやしないが、それに付随して仙台までが茶化されたり揶揄されたりするのは耐えられない。それが私の偽らざる本音でした。しかし今度ばかりは、『フラクタル』のときのように無視を決め込むわけにはいきませんでした。なんせ舞台が仙台なわけですから、「視聴しない」というスタンスを取ることは自分の中で許されませんでした。その代わりに、私は自分の心を頑なに自衛する小賢しい策に出ました。二〇一四年一月一二日の角川シネマ新宿での舞台挨拶の前日、わざわざもう一度『ヨヨネネ』を観に行き、「絶対に『ヨヨネネ』より面白いわけがない」と自分に言い聞かせていたのです。それほどまでに堅牢に武装して望んだ劇場版『WUG』だったのですが、物語が進行するにつれて、冷えに冷えた私の心は少しずつ解けていったのでした。そしてラストの「タチアガレ!」では、感情の奔流にただただ振り回されて、言葉もない状態でした。スタンディング・オヴェイションを送りたいくらいでした。ネットイナゴに振り回され、挙句の果てに「手のひら返し」をした私を笑いたければ笑いなさい。私はいまやその咎を全て引き受け、一生をかけて贖っていく覚悟を決めているのです。


 さて、『WUG』の物語は、仙台駅前のペデストリアンデッキから少し離れた地域で進行します。木町通、北四番丁勾当台公園、そして旭ヶ丘といった、中心市街から離れた地域が中心的に描かれるというのは、私にとって大きな衝撃でした。実家から一〇分足らずで行けるスポットから高校への通学路に至るまで、あれほど苦々しく思っていた「青春」の一頁が繰り広げられたその場所を、アニメのキャラクターが歩き、走り、躍動するというむず痒さ。居心地が悪くなるほど、スクリーンに映し出されたのは過不足のない、ありのままの仙台の姿でした。仙台を美化することなく、何とも言えない閉塞感漂う街として描き出したことは『WUG』の唯一無二の成功に繋がっていると思います。「中心」たる東京への憧れからグリーンリーヴズを辞めていくタレント、日本ガールズコレクションの地方枠を逃し仙台でくすぶる佳乃、上京費用が貯まらずメイド喫茶のぬるま湯で自分を守り続ける未夕、「都落ちアイドル」と噂される真夢、ミュージシャンの夢を諦め帰仙した松田マネ、健康ランドビールクズする連中、真夢目当てでわざわざ東京からやってくる悪趣味なゴシップ記者など、一々挙げているときりがありませんが、『WUG』は徹頭徹尾嫌な要素に満ちた話なのです。


 嫌な話には嫌な舞台を。「中途半端」な街としての仙台はまさに適材適所でした。全くの田舎でもなく、喧騒の都会でもない。全てを諦めてしまえば楽に生きていけるだけのリソースは揃っている――そんな街を舞台に選んでくれた慧眼を絶賛しないわけにはいきません。そして、こうした嫌な装置を使って、視聴直後はカタルシスを通じた爽やかな印象を与えつつ、完全に楽観的になるには早い引っ掛かりを毎回残すことによって、事後的に後味の悪さを甦らせる作りには感服するしかありません。仙台の光と闇、明暗を逃げずに正面から描かれてみて初めて分かったのは、この嫌な街は私にとって意外にもかけがえのないものだったのだ、ということです。上京して六年目になろうという段になって、私はようやく仙台の呪縛をある意味で受け容れることができそうなのです。それが故郷愛や郷土愛といったものに結びつくのかどうかは定かではありません。しかし、これはあまりに大きな一歩です。『WUG』は、私の仙台との向き合い方を再考させ、変化させつつあります。感謝しても感謝しきれないことです。


4


 私は、「聖地巡礼」ほど寒い地域振興はない、と思い続けてきました。


 ようやく「聖地巡礼」の話に入ることができます。私はそもそも「萌え」コンテンツを使って地域振興を図るというやり方には強い抵抗を感じてきました。ですから、『らき☆すた』で鷲宮神社が話題となったり、萌え米や萌え酒が話題となったりするたびにうんざりしてきたのです。最近で言えば『ガルパン』や多くの江ノ島アニメの「聖地巡礼」で盛り上がる人々を正直なところ「気持ち悪い」とすら思っていました。なぜそう思うのか、未だにうまく言語化できませんが、そもそも私はメジャーなものやトレンドの最先端を好きになれない天邪鬼ですので、その気持ちが「萌え」コンテンツにも流れ込んでいるのかもしれません。しかし、いざ「聖地巡礼」の当事者というか、自分の故郷が「聖地」になる側に立ってみると、なかなかに不思議な気持ちであることです。自分があれほど嫌っていた街、未だにアンビヴァレントな感情を抱く街、そこに縁もゆかりもない人々が集まって盛り上がっているというのは、何故か地味に嬉しいのです。それがナショナリスティックな感情なのか、それとも一見さんには分からない仙台の「魅力」を知っているという優越感なのかは判然としません。ただこれだけは言えます。『WUG』が、私の仙台との向き合い方に影響を及ぼしたことに伴って、私は他の地域の「聖地巡礼」というものを少し冷静に眺めることができるようになったのです。確かに「聖地巡礼」は、仕掛ける側がいるという点でビジネスやマーケティングの性格を完全に脱色しきるものではないのかもしれません。しかし、そこに住んでいる/住んでいた人間が、一方で情けなく、他方で誇らしい気持ちになることもあるのだ、ということを私は身をもって知りました。


 そして、愛理さんは言いました。「『WUG』が終わっても、仙台は終わりません。私は、仙台で待っていますから」。東京在住の声優が仙台に「わざわざやってくる」のでもなく、仙台出身の声優が仙台に「凱旋する」のでもなく、仙台在住の声優が仙台で「待っていてくれる」ということ。そしてそこへ、仙台出身で東京在住の私が「戻っていく」ということ。アニメやイベントの「中心」に行ったはずが、今度はイベントのために地元仙台へ蜻蛉返りしなければならなくなる、というのはまことに奇妙な感覚でした。実家が仙台にあるというリソースを、このときばかりは積極的に活用しているのです。このように、私は都合のいい、根無し草の「仙台民」です。だから私は、二〇一四年七月一〇日の「WUGナイター」ステージイベントで「仙台の人〜?」と愛理さんに言われたとき、自信を持って手を挙げることができませんでした。私は、旧宮城球場の脇のステージで、愛理さんの前で、「仙台民」を自認することを躊躇いました。これは私なりの誠意のあらわれだったのですが、それでもなお「あそこで手を挙げるべきだったのではないか」という思いに苛まれます。そんなどうしようもない私をも、ひとしく「待っていてくれる」愛理さんの慈愛の眼差しに、私は救われるような心地がしているのです。近頃は「本物の声優に出会えるのは徳島だけ」などと言われます。ローカルなものと声優が結びつく喜びと開放感が筆舌に尽くし難いものであることは、私も認めましょう。しかし想像してみてください。そこに徳島在住の声優と徳島出身/在住のヲタクが揃ったとき、舞台はこれ以上ないほどにドラマチックな様相を呈するとは思いませんか? このドラマは「遠征」をはるかに凌ぐものなのです。


 改めて問いましょう。あなたは、声優が「待っていてくれる」という経験をしたことがありますか? 愛理さんが大学を卒業した後、声優業を続けるために上京するとして、私と仙台との関係がどうなるのかはまだ分かりません。だからあと少し、あと少しだけ、仙台と向き合う機会をください。残り数ヶ月のロスタイムを、大切に噛み締めていきたい。そう思います。『WUG』は、そして愛理さんは、私の仙台に対するヴィジョンに介在することを通じて、私にとっての仙台を大きく変えてくれました。本当に、本当にありがとうございます。


 以上、たいへん長くなりましたが、仙台「在住」のワグナーからの反批判に期待しつつ、筆を擱かせていただきます。最後までお読みいただき、まことにありがとうございました。

 そして、仙台出身大宮在住の里本サカルさんが、この原稿について割と早期に感想を寄せてくれましたので、この場でも紹介しておきたいと思います。

 なお、このエントリを作成する直接のきっかけになったのは、「本物の声優に出会えるのは徳島だけ」というのが何を意味しているのかということを明らかにしてくれたこのエントリです。私も自分の勝手な傷を見せることで、他の人間を多かれ少なかれ不快な思いにさせているわけですから、リストカット痕をアップロードするアイツと何が違うのかは分かりませんが、それでも、ある種の自傷をステップにして歩んでいきたいとは思っているのです。次回へ続きます。

*1:http://d.hatena.ne.jp/tani-bu/20140814#1408019284

*2:http://togetter.com/li/716699

*3:関連する過去のエントリへ誘導しておきます。http://d.hatena.ne.jp/rasiel9713/20131129/1385727186 ここで書かれていることもまた、現在なお完全に維持されているわけではありませんが、自分をごまかさないためにも、そのままリンクをはることにします。